ポケロペンチオという軍団

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dis(ディス)らないといけない対象になっている時点でdis(ディス)る価値もない存在

前にひらめが書いた記事を読んでみた直後に、

ザキヤマのdisってない雰囲気でdisる技術

僕も同じテーマで記事を書きたくなったので書いてみよう、とtwitterで宣言してからずいぶん時間が経ってしまったが、

この記事が公開されているということはようやく書けたということになる。

なるほどねえ〜と納得しつつも、「あ、そのトピックに関しては自分は少し考え方が違うのかも」という気付きがあった。

僕がそう思えるということは、ひらめの記事にちゃんと個人の思想や主張が詰まっていたということであり、良記事だと言える。こうして同じトピックで自分も書いてみようと思えるきっかけになったわけであり、身内ながら大変ありがたい。

尚、ひらめもはまちもこれまでは「ですます調」で記事を書いていた気はするが、ひらめが口調を変えてきたので、

「ですます」調と「である」調の間には

はまちもそれに倣っている限りである。

基本的に「微妙な距離感の人」には自分の感情は一切伝えない

まず、disりたい対象はだいたい「微妙な距離感の人」ではないだろうか。

なので、僕は基本的には「微妙な距離感の人」にはなるべくタッチしないようにしている。

では「微妙な距離感の人」とはなんなのか。

街ですれ違った人だったり、客商売をしている人にとっての一見さん、バスの運転手にとっての乗客、カスタマーセンターなどで働いている人にとっての電話相手というのは、ここでいう「微妙な距離感の人」ではないはずだ。

たぶんこれらの人々はもう二度と会うことがないということが多いであろう「すげえ他人」なので、「微妙な距離感の人」には該当しない。

「微妙な距離感」の人とは、おそらく仕事をしている大人であれば、

・仕事場や会社の同僚
・業務上で継続したやり取りが必要な取引先の担当者
・近所のコミュニティの人

学生や子供であれば

・同じクラスで席が近い人
・部活のチームメイト

の中で、「それほど仲良くはないのだけど、生活のなかで接触を避けられない人」なのではないだろうか。

冒頭で

僕は基本的には「微妙な距離感の人」にはなるべくタッチしないようにしている

と言いはしたものの、当然僕もそれなりに通常の人間生活を送ってはいるので、「微妙な距離感の人」に接触しなければならないことはいくらかある。

もちろん、まずはなるべく接触しなくていい方法を考えるのだが、あまりそこに固執してしまうと余計なことに時間を取られる結果になったり、人間関係が壊れてしまって不都合が出たりお互い気分を害することが発生してしまうのは最も避けたいことなので、「なるべくタッチしないようにする」というさじ加減になる。

「なるべくタッチしないようにする」というのはどういうことなのか。

・・・

その答えは、「必要最低限の接触しかしない」ということである。

仕事や学校において、その人達との接触は必要で避けられないものだとしても、自分が「微妙な距離感」と現時点で評価を下してしまっている以上は残念ながら今後仲良くなる可能性も薄い。

もちろん仲良くなる可能性はあっても、そもそも仲良くなる人って最初からそんな微妙な距離感というよりは結構すぐに打ち解けたりするものである。(か、もしくはすんごい劇的なドラマが偶発して一気に仲良くなるとか)

「微妙な距離感」からスタートして紆余曲折を経て素敵な関係へと変化していくこともあるので、その可能性をすべて捨て去る必要はないと思うが、すべての「微妙な距離感の人」に対してその期待をしてしまうのはたぶんだいぶ息苦しくなってしまう。

だから、「微妙な距離感の人」にはなるべくタッチしない。

そして、何も期待をしない。

となると、自分が怒っているだとかイライラしているだとかの感情もわざわざ教えてあげる必要がない、と思っている。

そもそも自分以外の人に対して何も期待してはいけない

「自分の感情」というのは極めてパーソナルな領域なので、個人的にはそれを仲良くない人にまで教えてあげる必要はないと思っている。

何かをお願いしたい場合に対価として「自分の感情」を差し出す必要はあるのかもしれないけれど、まずはなるべく「そういうお願い(=感情でどうにかしなければならないこと)」をしなくて良い方法を考えたい。

そうすると、対価なしに相手が動いてくれるのではないかという「期待」が芽生えることになってしまいがちだけど、ここで期待をしてはいけない。

僕はそもそも他人に対して勝手に期待するという行為が間違っていると思っている派だ。

これは「微妙な距離感の人」に対してだけではなく身内に対しても同様で、自分以外の人に対して「こう言ってくれたり動いてくれたらいいなあ」とかって勝手に妄想するのは本来は甚だおこがましい行為だと思う。

というか、そんな期待をしてしまうから達成出来なかった場合に不満や怒りの感情が湧いてきてしまうのが大半を占めているのではないか、と思っている。

もちろん前述の仕事や学校での「微妙な距離感の人」に対して、共同で活動を行っている以上は改善をお願いしたい場面は出てくると思う。

で、その改善をお願いしたい内容がそもそも自分としては考えられないような、自分の常識とは大きく異なるケースのときに「何なんだこの人は」と不満や怒りの感情が湧いてきがちなのだと思う。

でも、自分の常識が他者にもすべて合致するケースというのはかなり稀だと思っている。

だったら、はじめから期待しなければいい。改善してもらう事項があまりに多い場合は、なるべく穏便にその人の元を去ることを考える。

・・・という具合に極論ではあるけれど、結局自分の思考や立ち位置を変えるなど、自分を操作してどうにかしたほうが早いし健全だ!と思っている。

だから「微妙な距離感の人」には自分の感情は教えない。

いずれなるようになる

というわけで、「disらないといけない対象になっている時点で僕にとってはdisる価値もない存在」ということになると思っているのだけど、まあそう言いつつも僕も人間なので毎回そうもいかないというか、単純にこの思想がすっぽり頭から抜けてしまっているときはあると思う。

でもこの思想が実践出来ているときは、気持ち的にも本当に楽というか自分に都合のいい解釈が出来ている感じがするので、ぜひおすすめしたいと思っている。

僕はそもそも不満や怒りの感情で人が簡単に変わってくれるとはあまり思っていない。冷たい考え方なのかもしれないけど、相手が「微妙な距離感の人」であればなおさらだと思う。みんな自分の人生をそれぞれ生きているということは間違いない。

そう考えたら、人に対して何か言いたいという機会がだいぶ減るのではないかなと思っている。

「ゆっくりと時間をかけて物事が正しい方に進んていく」ということを割と信じている派なので、disりたい対象になる人としばらくは縁が切れないということがあったとしても、自分の選択として正しい状態というのをきちんと保っておければ、いずれなるようになるかなあ、と、そう思っている。

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