習慣は自分の調子を確認できるバロメータになる
少し前に適応障害になった経験について記事にした。
最近は調子も良く、寛解と言っても過言ではないんじゃない?と思って過ごしていたし、そんなことをドヤ感(おちこんだりもしたけれど、私はげんきです。感)を溢れさせながら記事にも書いていた。
できるだけ自分の病気のことや経験は話したいと思っている⑥〜なかなか治らない適応障害。どうやって過ごしていたか。〜
しかし、結局4月に入ってからとにかくやる気が出ず、このブログも書かずに休んでいた。
今になって思うのが、適応障害になってから起こっている体調の浮き沈みの「沈み」部分にいたのだ。
確かに、今になって思うのが、よく寝ていた。私は調子が悪くなると眠る時間とじっとしている時間が異常に多くなる。あと、息苦しいという症状が再燃していた。なんとなく、調子悪いんじゃね?と思っていたが、元気になったと思いたい自分がそれを許さなかったのかもしれない。
楽しく文章が書けない日が続いた
異変が起き始めていたのは、その適応障害の経験についてのシリーズを書いていた後半。文章を書けるのは書けるのだけれども、なんていうか面白いこと書けてない感がすごかった。
もともと面白いことを書こうとはしていないけれども、最低限自分がいいと思える文章を書きたいし、いい文章を書けている時には、心地良さと若干の高揚感があるものだ。
書いても書いても「無」。感じるものは何もない「無」だった。
その時は、所詮最近になってブログを書き始めた者、そんな続けて文章書くとかできねーよ。ぺローン。という感じに思っていた。
自分の調子が悪いから、文章もうまく書けない、という発想になっていなかったのだ。
体調が悪くなると、そりゃ脳の働きもうまくいかなくなるだろう。脳みそだって体の一部なわけだ。脳みその引き出し機能がうまくいかなければ、心地いい文章も書けない。
筋トレにも調子の良し悪しがでる
そして、これと同じことが筋トレにも起こっていた。筋トレを始めて2年くらいなのだけれども、現在は週に3回ほど定期的に行っている。
筋トレの出来も体調の良し悪しによってだいぶ変わってくる。酒を飲みすぎた次の日は面白いくらい、自分の身体能力が落ちていることに気づける。
いつも同じ動作を繰り返し行っているのだから、出来の良し悪しはわかりやすいのだ。
つい最近、息苦しい症状もひどいし、とにかくだるい日があった。
しかし、何日も用事があったりで筋トレができていなかったので、今日はどうしてもやりたいと、調子悪いなと思いながらジムに向かった。
筋トレを開始してもやっぱり調子が悪い。しかし、自分に課したタスクは終わらせたいそんな思いで、とにかく終わらせようとしていた、しかし、「あれ?なんか自分これやばいかも」と思う瞬間があり、中途半端だったが、筋トレはやめてストレッチを始めた。
その時、手足の痺れと息ができない感覚があり、気絶するんじゃないかという恐怖が襲ってきた。
もしやこれって、巷で噂のパニック発作じゃね?と思った。適応障害になってからは関連する情報を調べていたので、なんとなくそう思った。
やばいと焦るなか、「パニック発作 対処」とググり、そこに書いてあった、うつ伏せになって、4秒で吸い、6秒で吐くという呼吸を何回かやるという対処法を行いことなきを得た。
本来であれば、筋トレを始めてやっぱり調子よくないと思った時にやめるべきだったのだ。そして、それが習慣化している物事を利用して自分の状態を知る正しい活用法だった。
今回の経験で、やっぱりダメな時はダメなんだとよくわかった。
習慣がもたらすもう一つの側面に気づく
私と同じような自律神経グズグズ体調悪いマンには、何かを習慣化することをお勧めしたい。
ここまで書いてきた通り、習慣的にやっていることがあれば、それが自分の体調のバロメータになるからだ。
何事も心・技・体ってことだなーと思う。